沖縄を書すー中川とき彦(泰峯)の書作

とき彦の書道塾

書について自由闊達に述べる、とき彦の書道コラムです。

その1-「好きこそものの上手なれ」

 筆できれいな字が書けたら…。展覧会、結婚式、葬式などの会場入口におかれている芳名録を前にしたときに、どうしても尻込みしてしまう…。なんとかうまく書けたらなぁ…。そんな動機で書塾や書道サークルに通い出したという声をよく耳にします。
 きれいな文字を書きたいということでは、年賀状の宛名を書くとき、そう思うことが多いですね(最近はパソコンが主流になっていますが)。実はこの宛名や人名を筆で書くことが、いかに大変であり、難しい作業であるかということを、書を始めるとわかってきます。

 新聞などに、書を始めませんか、サークルで絵手紙を練習しましょう、といった書塾の案内広告が出ています。が、しかし、気になるのは、すぐに上達すると思わせるような広告が多いことです。
スポーツでも芸事でも、すぐに上達するものはありません。書も同じです。やはり基礎から積み上げていく、苦しい作業はつきものです。ところが人間、なんとなく好きなものについては「苦しい」とは思わず「楽しい」と感じ、継続できます。これが大事なのです。

「好きこそものの上手なれ」とはよくいったものです。好きになることから継続が生まれ、上手になります。宛名書きも同様。文字を筆で書くことが好きになり、継続していくと、いつのまにか上手になります。芳名録を前にしても臆することなく、自信を持って書けるようになります。

その2-なんとなく書に親しんできた

 私は、小学生の頃から習字や図画の時間が好きでした。しかし習字(書道)の先生は身近におられましたが、絵の先生には恵まれませんでした。なのにどういうわけか、今でも書よりも絵を観るほうが好きですし、楽しく感じます。どうして書は楽しくないのだろうかと思ってしまいます。

 絵が好きなら絵の道に進むことも考えられたのですが、絵描きは酒におぼれて妻子や親戚縁者に迷惑をかけ早死にしている人が多く、画家になるのもどうかなと思いました。油絵や日本画などの道具も見たことがないし…。結局、なんとなく書に親しんできました。でも書家になって書で生活していくなんてことは、大学を卒業しても考えていませんでした。大学での専攻はマルクス経済学でしたから。

 そんな折、たまたま競書雑誌を出版している全日本書芸文化院の社長さんに誘われて入社したのが、書道との本格的な出会いです。そしてそこには、比田井天来(ひだいてんらい)の門人・桑原翠邦(くわはらすいほう)先生が会長となられ、田代秋鶴(たしろしゅうかく)の門人・二宮景雲(にのみやけいうん)、高澤南総(たかざわなんそう)、田上帯雨(たがみたいう)という先生方が活躍されていました。素晴らしい書に啓発されました。
 今日の書を観るとき、上の先生方の書作品のように、私を感動させるものがなくなってきています。それが、先に述べたように、展覧会に行っても楽しくなくなってきたように思うのです。こまったものです。

夢回春艸池塘外 詩在梅花煙雨間
田代秋鶴(1883-1946)
40歳作

その3-書の用具あれこれ

 書は硯に墨をすって紙に筆で文字を書くこと。どの書道の本をみても、そのように書いてあります。では、書の用具はどんなものがいいのでしょうか。以下は私の経験です。

 私の場合、書をはじめるに際して、硯だけは15×20㎝くらいの大きなものを買いました。お金もないので当然、安い硯です。今は墨すり機という機械がありますが、私が20代の頃は、半日墨をすっていました。そして書き出すとすぐにすった墨がなくなっていくのです。それは下手くそだからなのです。
 上手くなると、筆につけた墨が長持ちするようになります。私は墨をするのがとても下手くそで、墨が平に維持できませんでした。

 書をこれからはじめようと思うのでしたら、まず半切(34×135㎝=紙の大きさ)かその倍の全紙の下敷き、硯は大きいもの、墨も大きいものを選び、筆はだんだんと種類を買いそろえていけばいいと思います。
 また根気よく続けるためには、書塾に行くことをすすめます。師を選ぶのは時の運かもしれませんが。高齢の方は、身近なサークルでわいわい言いながら、楽しむ書でいいのではないでしょうか。

 道具は、高価なものはいいものが多いと思いますが、それを使えば良い作品ができるかというと、そうでないところがまた書道の面白いところです。先ずは、自分の家で自分の時間をつくって書くこと。そして少しずつでもいいから、続けることが何よりも大切なことだと思います。

私の書室です。黒い毛氈を敷き、左側に手本(法帖)、右側に書の用具・道具を一式並べて書作に臨みます。

その4-書とデザイン文字

 以前に「書道ガールズ」という映画がヒットしました。書で町興しをしようという映画でした。近年は、パフォーマンス書道が華やかです。先日もアフリカの大統領らを招いての国際会議で、女学生が書道パフォーマンスを披露していたのがテレビで紹介されていました。いまや書道はひとつのブームとなっています。筆を使って文字を書くことや、書作品をみることに興味・関心を抱くということでは、とても大きな影響を与えています。

 ところで、筆を使ったデザイン文字風の書がやたら目につくこの頃です。そうした書にかぎって派手なパフォーマンスを取り入れています。書とデザイン文字は似て非なるものです。私は、書とデザイン文字のあいだにはっきりと一線を画したいと思っています。
 なぜなら先ず、書は一時のパフォーマンスで表現するものではないということです。先人が残した古典の文字を素材として、地道に写生をする。書では古典の臨書といい、写実に徹する作業の繰り返しを根気よく続けることが書道であると私は考えます。そのように先人の先生方に教えられてきましたし、このことを後輩に伝えていきたいと思っています。

 パフォーマンスで奇を衒ったデザイン文字のような書は、見た目は派手ですが、先人の書を無視した、手前勝手な書と私は思っています。人びとをギョッとさせる書は、そのときは目立っても、やがてあきられ、消えてしまうでしょう。美しくないものは長く残りません。

 ゆっくり、地道に、こつこつと…。書をはじめるなら、書聖・王羲之の書を観ることからはじめてはいかがでしょうか。

蘭亭叙(らんていじょ)
筆者 王羲之
東晋(358)

その5-臨書とは-1

 書を勉強する上で、学書すなわち臨書が大切であることは、どの教本にも書いてあります。しかしその理由や臨書にたいする理解の仕方、手本(古碑法帖)のとらえ方はいろいろです。
 臨書とは「手本をみて字を書くこと」とありますが、その手本は書塾の先生が書いてくれたものをみて書くことを臨書というかというと、これまたいろいろな意見があります。

 そこで私の尊敬する先生方から教えられたことを記述します。
 手本=古典。「古典」とは、長い歴史に耐え、ふるいにかけられて今日まで残ってきたものをいいます。その古典の中から、臨書(写実に徹する)の対象となる手本(法帖)として何を選ぶかは、教える先生によってまちまちです。

 私はいままで書をやってきて、中国唐の時代、中唐の顔真卿(がんしんけい=有名な書家です。これからたびたび登場しますので覚えておいてください)あたりを下限として、これより古い時代の書を手本にして、臨書をし続けています。やれどもやれども上手に書けないでいますが…。

 書を習おうとする皆さんは、古典の臨書に真摯に取り組まれている先生を師とし、勉強していくとよいと思います。 みたこともない形をしている文字を、どうしたら筆で上手に書くことができるようになるか…。臨書は書道の第一歩です。

王羲之の蘭亭叙(らんていじょ)の臨書。永のたて画は、法帖(ほうじょう)ではこんなにソッていないのに、自分のクセがなかなかとれません。

後漢時代の隷書、張遷碑(ちょうせんひ)の臨書です。

その6-臨書とは-2

 戦後、芸術運動が盛んになってきたころ、書においても個性の開花とかいって、「個性的な書」が盛んになったことがあります。一方で、臨書とはしょせん物真似にすぎず、自分のレパートリーをひろげるのには役立っても、展覧会に入選したり入賞したりする上では大して役立つものではない、という考えが充満しました。そして臨書作品が有名な展覧会では見向きもされなくなったことは、その後の書道界をおかしくしてしまったように思われます。

 私の尊敬する先生方は、書は、古典の臨書を追求してやまぬ姿勢を貫いていくことにあると、力強く臨書を続けておられます。決して、奇を衒った、奇抜な文字を書くことなかれと、諭し続けてくださいました。

 絵画には、自然の風景、庭の草花、街のたたずまい、人物、天空の雲・星・月などなど、対象となる美しい素材がたくさんあります。と同様に、書の世界には、甲骨(こうこつ)文字、金文(きんぶん)、木簡(もっかん)、隷書、草書、楷書、行書と、時代によって、石に刻まれたり、手紙(尺牘=せきとく)に記されたりして、今日まで残っている素晴らしい文字があります。印刷物となったそれらを、私たちは自由に手にし、みることができます。これらの文字を、どのように筆を持って、運筆(送筆)すればいいのだろうかと、研究し、練習を重ねています。

 ところで、絵の場合は、たとえば素晴らしい景色をみて感動する心が先ず生じてくると思うのですが、書の場合は、感動は書き終わったあとにわき上がってくることが多いのです。古い、よくわからない文字をみて、先ず感動するというふうにはいきません。しかし臨書を重ねていくうち、感動がわき上がってきます。これが臨書の素晴らしさともいえます。

木・月・山の文字を上から楷書・行書・
草書・隷書・篆書(てんしょ)・甲骨文字で
書いてみました。

その7-書くということ

 私はいま、月に二度、障がい者の学園に、書く楽しさや書に興味を抱いてくれることを期して通っています。彼らは、その時間になると顔を出してくれるので、筆を持つことが嫌いではないのだなと思っています。

 教室でははじめに、手本として半紙に朱で漢字二文字を、楷書・行書・草書・隷書・篆書(象形文字)で書いたものをみせます。彼らには、最初は大きな紙を用意し、手をとって一緒になって書き、次にひとりでその上から書いてみるようにいいます。それが終わると、新しい大きな紙に、さあ書いてみようといいます。彼らはあっという間に書き上げます。

 これがもし一般の人だと、一点一画、左の手本をみながらどうしようかと迷い、かならずといっていいほど、一の字を書くと最後(収筆・終筆)に、よいしょと筆をおろし、筆をいつまでもゆすってから、次へ進みますが、学園の彼らはそんなことはしません。次から次へと進むのです。

 また一般の人は、まだ初心者だからと、楷書以外は上手になってからやるものだと決めつけています。ここに大きな問題があるように思うのです。

 一般の初心者にいえること。
●上手に書こうとして運筆が遅渋になります。
●手本ばかりをみて、書くほうがおろそかになります。
●伸び伸びとおおらかに書けません。
以上のことだけでも頭に入れ、気をつけて書けば、上達進歩がみえてきます。

 私は、書き上がった作品に、決して朱で○をつけたり直したりはしません。よくできたなと、肩をポンとたたくだけです。


書く人によって、いろんな筆の持ち方があります

筆管の中部を握る
筆管の下部を握る
筆管の上部を握る
双鉤(そうこう)
人さし指と中指
をかける
単鉤(たんこう)
人さし指をかける
枕腕(ちんわん)
左手の上にのせる




 

その8-“かな”について

 手紙をペンや筆で上手に書けるようになりたい、と書を習う方は多いと思います。
 手紙を書く時、日常の挨拶文にはかならず“かな”を使います。そこでかな書きの練習について思うことを少し述べてみます。

 本屋さんに行けば、かな入門書の本はたくさんあります。ところが、それを手にとって自分ではじめたとしても、長続きする方は少ないようです。やはり先生につくのがいいと思うのですが、塾に通うことや月謝のことを考えると、おっくうになるみたいです。

 そこで、自分でやってみようとする方に。
 角川書店の『書道字典』には漢字はもちろんのこと、最終ページに古典=古筆のいろいろな「あ・い・う…」と、「あ」だけでも140種が掲載されています。これをみて書く=臨書するだけでも練習になります(他にも『かな字林』とかあります)
 私はこれでかなを勉強しました。そうするといかに漢字の勉強が必要かということがわかってきますし、草書体が理解できるようになり、いろいろなことが知識として身についてきます。

 真(ま)かな・草(そう)かな・平かな・変体かな・万葉かな・片かな・単体・連綿・調和体・散らし書き・行書き…等々。またここでも、紙、筆、墨、硯はどうしたらよいのかと悩まれる方が多いと思いますが、安価な筆でもいいので、先ず書くこと、書きまくることが一番大切です。その時間を自分でどう作っていくかが大事になります。先ずははじめてみることです。


和漢朗詠集(わかんろうえいしゅう)
のいろは伝 藤原行成
(ふじわらのこうせい)
高野切第三種(こうやぎれだいさんしゅ)
のいろは



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