沖縄を書す
中川泰峯書作展(東京銀座画廊美術館)より
神(かみ)
斉場御嶽(せいふぁーうたき)より久高島(くたかじま)を眺望した時の感動、
久高島に郵便船で渡った時の感動を想い起こし…。
外間守善・大城立裕・大田昌秀・新川明・高良倉吉ほかを読んで。
花風(はなふう)
琉球舞踊の一つ。志田房子・真境名佳子・佐藤太佳子の踊りを東京国立劇場でみた時の感動が忘れられない。
那覇港から去りゆく恋人を見送り、静かに人目を避けるように傘をさし、辻の花街に帰る遊女の舞「花風」。
尚古(しょうこ)
古きを尚っとぶの意だが、「尚」からイメージ…琉球王朝尚家、幻の陶芸家、国吉清尚さんの尚が重なって…。
普猷(ふゆう)
伊波普猷。沖縄が生んだ歴史学者。「おもろさうし」の研究者として沖縄の人々の敬愛の的となっている。
焼き締の炎の中に身を投じ
沖縄想ふ珊瑚の紋様
五十五歳で自ら命を断った沖縄の幻の陶匠、国吉清尚さんを偲んで。
程順則の詩より
東苑八景 其一
東苑八景 其三
東苑八景 其四
東苑八景 其七
程順則(ていじゅんそく)
(1663〜1734)
沖縄の那覇市の久米村(くめむら)というところは、明代、中国への進貢が始まった頃、中国からの知識人が多勢この久米村(くにんだ)に住み、琉球の学問的気風を高めたという。その久米村出身の程順則は中国へ五回渡っている。漢詩文に精通し、中国から帰る時に「六諭衍義」という書物を持ち帰り、沖縄中にひろく教えられ、薩摩藩(島津)を通して徳川吉宗に献上され、日本全国の寺子屋の教科書として採用されていった。
程摶萬の詩より
春日登山(十一歳作)
歩月(十二歳作)
詠竹(十三歳作)
詠蘭(十四歳作)
程摶萬(ていせんばん)
(1689〜1702)
程順則の次男摶萬は十四歳で夭折している。程順則はことごとく子供を亡くし、家運には恵まれなかった。摶萬は詩才にたけ、その遺稿を父順則は、福建に渡り、恩師陳元輔に、摶萬のために序文を頼んでいる。
陳元輔は、程摶萬の詩才を唐の詩人で詩心と称される李白や奇才李賀になぞらえて、その死を惜しんでいる。
青螺(せいら)
螺(ほらがい)の形をした
青い山並み
東苑八景 其四より
虚心獨自安(十三歳作)
(きょしんひとり
おのずからやすんず)
詠竹より
悲哭(ひこく)
「沖縄の悲哭」と題して詩は牧港篤三、版画は儀間比呂志による共著に深く感動。
臨・万国津梁鐘銘(ばんこくしんりょうのしょうめい)
琉球国王の尚泰久(しょうたいきゅう)の時代、1458年鋳造の鐘に刻まれた銘文。この鐘は首里城正殿に掛けられたといわれている。現在は、沖縄県立博物館・美術館に展示されている。
1991年、訪沖の折に旧博物館で写しとり、県立図書館で拓本を見せていただき、そこで臨書し、帰ってから全紙六枚に書き上げ、屏風に仕立てたものである。
山之口貘(やまのぐちばく)<1903〜1963>の詩「座蒲団」より
沖縄の代表詩人バクさんは、よく池袋の沖縄の店「おもろ」に顔を出し、泡盛を飲み、サンシンを奏で、踊っていたという。その店は現在もある。よくそこに通い、ゴーヤチャンプル、ラフテー、島ラッキョーと古酒で舌つづみをした。
語りたや 語りたや
月の山の端に
かかるまでも
大城立裕著『花の碑』の中に出てくる琉歌より
樹霊(じゅれい)
比嘉辰夫詩集「ブナガヤ」(妖怪のキジムナー)より
守禮(しゅれい)
琉球王国は礼節を守る国。首里城に入る前に「守禮之邦」の門がある。
阿児奈波(あこなわ・うちなわ)
『琉歌つれづれ』(石野径一郎著)の鑑真と沖縄の項に、「沖縄」の名が文献に出たのは『唐大和上東征伝』の中に、万葉かな風に阿児奈波(うちなわ)とかかれたのが最初といわれる…とあった。